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コラム

2023-12-20

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元・結婚情報誌編集者が見た映画「老ナルキソス」の面白さと、ゼクシィのゆくえ

かつて、結婚情報誌の編集者でした。

今はダイバーシティをテーマにしていることもあり、セクシュアル・マイノリティに関する作品や報道に触れることが増えました。

そんな私にとって東海林毅監督の映画「老ナルキソス」は、今年の日本オレデミー賞の一つ。

ゲイとしての生き方やカルチャー、それらを取り巻く社会を、過去から現在へつないで描きながら、その延長線上に家族というものを問いかける。

映画というアートフォームはこういう作品のためにある、とまで感じました。

波打つ感情がようやく落ち着いた数日後。

同じくセクシュアル・マイノリティの家族像について、とある広告が世間の物議を醸しました。

ここ最近では珍しいほどの、ディスとリスペクトの両極端。そう、ゼクシィです。

「老ナルキソス」とゼクシィの広告。いわば、今という過渡期を象徴するような作品たち。

同性カップルを描いているのは同じ。愛し合う二人の幸せを願っているのも同じ。なのに、それぞれのまなざしは真逆の未来に向けられている気がする。元・業界関係者の私には、そう見えてしかたありませんでした。

過渡期の今しか撮れない映画、「老ナルキソス」

東海林毅監督の映画「老ナルキソス」。
私の感想は
「今しか撮れない映画だな。後世に残すべき作品だな。でも、今しか撮れないでほしいな」
でした。変な感想。

映画の惹句には、こうあります。

『ゲイでナルシストの老絵本作家と、美しいウリセンボーイ。二人の旅から浮かび上がる、過去と未来の家族物語』

公式サイトにはより詳細なストーリーが紹介されているので、ぜひご覧ください。100%想像を超えてきますが。
物語は過去を背負う老人・山崎と、今を生きる青年・レオ、この二人の出会いから始まります。
人がもてあます性愛や孤独、誰かと共に生きることの悲喜を分かち合いながら、彼らの関係は深まっていきます。
そんな二人に否応なく影響を与えていく、ゲイ・コミュニティやカルチャーの変化。そして、社会的理解や制度といった環境の進歩。時代の移ろいが、じいさんと孫ほど歳の離れた彼らの関係に揺さぶりをかけてきます。
そして訪れる、家族という普遍的な課題。
親や兄弟はもちろん、自ら選べたかもしれない家族や、これから選ぶことになる家族。そんな大切な人たちへの後悔や葛藤、希望を抱え、二人はどんな人生を選んでいくのか。
本作には、実にさまざまな視点が組み込まれているのです。

しかし観ていて不思議とグッタリしないのは、エロくて笑えてジーンとして、一瞬たりとも既定路線におさまらないから。
しかも老人と青年の、歳の差バディものでもある。
おもしろ要素の寄せ鍋状態。エンターテインメント作品としてしっかり楽しめるのです。

はい。頭と心をとても使う映画です。
10人が観たら10通りの記憶として残る作品、と言えるかもしれません。それくらい情報量が多く、多面的な魅力があります。
とくに私の印象に強く残ったのは、同性パートナーシップ制度の描き方。まるで社会と切り結んでいるようでした。

その最たるものが、役所のシーン。レオがパートナーである隼人とともに、窓口で同性パートナーシップ制度に申請する場面です。
人生の新たな一歩を踏み出す、二人の逡巡と勇気。それに対するマニュアル的な制約の数々と、付け焼き刃なアライ感。とはいえ役人さんも二人の幸せを願っているから、始末が悪い。
申請に立ち会ったことのない私でも、
「これでは何かが枯れてしまう」
と、現場にいるような感想を抱いてしまいました。
監督もインタビューで「今回は特に制度の説明に時間を割きました」と応えていましたが、確かに生々しい。

ご存知の通り今、同性パートナーシップ制度は日本全国の自治体で導入が進んでいます。きっとこれからも広がっていくでしょう。
今はその過渡期。制度の価値や意義に一定の理解は示しつつも、違和感や課題を直視した「老ナルキソス」は、今しか撮れない作品であり、記録としても後世に残すべき作品だと感じました。

さらに言えば、あのシーンをリアリティをもって撮れるのは、今だけでたくさんだ、とも。
あの場面は、時代の徒花であってほしい。今しか撮れない映画であって欲しい。早く同性婚が認められるといいのに。そう思わずにはいられませんでした。
好きあって一緒になろうという二人に、無関係な人が一方的に条件をつける。そんな筋合い、誰にもあるはずがないのですから。

私は、幸せな人が一人でも多い社会で生きていきたいのです。

今しか撮れない映画。後世に残すべき映画。でも今しか撮れないで欲しい映画ー
「老ナルキソス」は、今という時代を強烈に意識させる、過渡期ならではの映画でした。

そして、その数日後。
私はあのゼクシィの広告を目にすることになります。

過渡期のどっちつかず感が出たゼクシィの広告

結婚業界のシンボルが初めて同性カップルを起用したと、大きく報道されたゼクシィの広告。いろいろな個人や法人も賛否の両面から意見し、話題となりました。
いわく
「選べますようにって言ってるけど、選択肢がない」
「誰目線?」
「企業として表明したことに賛辞と賛同を送りたい」
などなど。賛と否が、南極と北極くらい離れてました。

私のタイムラインには、否定的な意見ばかり流れてきた気がします。
「あーやっぱそんな感じ?」
と、一瞬だけ他人の意見を私物化しそうになりましたが、グッと踏みとどまり。ネット情報は鵜呑み厳禁ということで、渋谷へ実物を見にいきました。遠かった。

コピーは、こうでした。

『あなたが幸せなら、それでいい』

結婚しなくてもいいし、何度結婚したっていい。

四六時中いっしょにいてもいいし、ここちよい距離感で過ごしたっていい。

家族が増えるのもいいし、ずっとふたりでいるのもいい。

誰がなんと言おうと、いいのです。

幸せの決定権は、いつだって自分にあるのだから。

どうか選べますように。

他でもない、あなたが幸せになる選択肢を。

やはり

「なんだかなぁ・・・」

でした。

まず。
同性カップルをモデル起用しながら、コピーでは同性婚や同性パートナーシップ制度に触れられていませんでした。
「あれ?このモデルさんたちを起用した意味って何?」
「今の婚姻制度のなかでの話ってこと?」
そんな疑問が湧いてきました。なんだこりゃ。

もしかするとゼクシィとしては
「愛し合うカップルたちに、ゲイやレズビアンといったカテゴライズはいらない。だからモデルとしては起用するけれど、コピーにはあえて書かない」
ということなのかもしれません。
だとしたら、その考え方には私も賛成です。そろそろ、ゲイカップルとかレズビアンカップルとかいう言い方、やめませんか?異性カップルって言わないでしょ?と。
しかし、今回はそれが裏目に出てしまっている。ビジュアルとコピーが一致せず、意味が通らなくなっているのです。

しかも。
試みに頭の中で、ボディコピーの末尾に(※ただし同性婚は除く)と加えてみてください。メッセージとして成立するはずです。つまり、この内容なら同性婚に反対している人でも言えてしまう、ということ。
キャッチコピーが「それでいい」で終わることとも相まって、勝手に幸せになればいいじゃん、という突き放した読み取り方もできてしまう。

もちろんゼクシィとしても、それは本意ではないでしょう。
しかし同性婚や同性パートナーシップ制度について、旗色を明確にしていないことよりそれが起きてしまっている。
「同性どうしで結婚したっていい」
この一行があるだけで、メッセージのピントが合う。そんなことは百も承知のはずなのに。

この広告が、セクシュアル・マイノリティを起用することで話題化を狙っていることは明らかです。
なのになぜ、同性婚や同性パートナーシップ制度への明言を避けるのか。
推進に賛成なら、なぜそうと宣言しないのか。
このどっちつかず感もまた、過渡期ならではだなと。過渡期ならではのダメな感じが出たな、と。

とはいえ、かつて業界関係者だった私には、感慨深いものでした。あのゼクシィがようやく過渡期を迎えたのかと。いわば、20年越しの変化なのですから。

実は私が現役だった2000年代でも、業界内では同性ウエディング向けサービスには潜在的なニーズがあるのでは、と見込まれていました。
もちろんゼクシィも例外ではなく、かの有名なリクルート式社内事業コンペにも同様のアイデアを出した人の話をきいたことがあります。もしかすると、当事者による切実な企画だったのかもしれません。
しかし、蹴られた。おそらく、その後も蹴られ続けてきた。

あれから、ほぼ四半世紀。
情報を影響力に変え収益を上げる、というビジネスモデルでリクルートは事業拡大を続けてきました。
そして情報の集まるところには、社会的責任がともなう。顧客や読者だけでなく、未来に対してもです。
もしゼクシィが本当にカップルの幸せを目指し、第一人者として先駆していたならば、いまの同性婚を取り巻く環境はもっとよくなっていたはず。目の前の収益だけを追い、未来への責任を負わなかった罪は重いと思います。
「遅ぇよ」
ようやく、ようやく変化が始まった。私は大きな屋外広告を見上げながら、毒づきました。渋谷でブツブツ独りごとを言ってと職質されますから、心の中でですけど。

そして同時に、こうも感じられたのです。
ひょっとしてゼクシィが思い描く未来は「老ナルキソス」とはまったく異なるもの、いや真逆なのかもしれない、と。

「老ナルキソス」とゼクシィが過渡期の先に見る異夢

ゼクシィが、同性パートナーシップ制度の広がりを”市場の広がり”と見なしているのは、ほぼ間違いないでしょう。

かつての知り合いに連絡をとってみたところ、ゼクシィが主催するGOOD WEDDING AWARDでは、ここ毎年ゲイやレズビアンの方々の素敵な結婚式が「いい結婚式」の事例として上位に食い込んでいるとのこと。

実際、この広告を発信後、ゼクシィの編集長は取材に対してこう応えています。

「すぐに法律を変えることは難しいと思います。 ですが法的に結婚ができない同性カップルだからこそ、結婚式に意味があると考えるカップルは少なくありません。そのための情報が足りていないという声も多くあり、その声に答えていきたいと思っています」

(BUSINESS INSIDER JAPAN)

しかしゼクシィは本当に、今を”過渡期”と考えているのでしょうか。

というのも。
同性パートナーシップ制度は、主に自治体が整え運用するもの。リクルートとしては、自治体の動きに乗って同性カップルの結婚式が増えてほしいはずです。

しかしこの動きは、政府の方針とは本質的に相容れないものです。自民党議員や支持者には、同性婚に反対する保守層がわんさかといますから。
そしてその政府の事業に、リクルートは参画しています。配信型の学習コンテンツやベンチャー育成がそれにあたるでしょう。

つまり、リクルートが同性婚のムーブメントを助長したと、政府から睨まれたくない、刺激したくないはず。まして国の上層部には、リクルート事件を覚えている人もたくさん残っています。
必然的にリクルートは、ダブルスタンダードな言動を強いられる。そう考えると、あの及び腰なコピーも辻褄があいます。

逆に言えば、リクルートにとって都合の良い展開とは「現状の維持・拡大」である、とも言えます。
同性パートナーシップ制度だけが全国各地で量産され、定着していく。同性婚は法制度化されないままに。そんなダブルスタンダードの継続が、もっとも事業メリットになるのではと考えます。

法律はすぐには変わらない。きっとそうでしょう。企業が発言をすることも、重要なことだと思います。
しかし、変えようとしなければ何十年でも保持されるのが法律です。その間、人権や権利は平然と犠牲にされ続ける。優生保護法が最たる例です。
そして企業はそれを利用し、既成事実化することができる。利益のみで動く企業に任せっきりは怖い。

私はここでも先の「老ナルキソス」の、パートナーシップ制度の申請シーンを思い出します。
同作には現場や個人の視点、つまり当事者性がありました。
同性カップルの結婚をテーマとし、しかも二人の幸せを願っているという点は共通しているものの、ゼクシィの広告は企業目線に終始した。
「老ナルキソス」とゼクシィが思い描く未来は、まったく異なっているのかもしれません。

あらためて「老ナルキソス」が後世に残るべき作品だと思うのは、今を生きる人の視点があるから。そんな理由もあったりするのです。
どうやらDVD化に向けたクラウドファンディングも展開中みたいなので、御縁があれぱ一度ご覧になることをオススメします。

(おわり)

著者:草冠結太

ダイバーシティ・コンテンツ・リサーチャー。ダイバーシティ&インクルージョンにまつわるイベントやコンテンツを幅広く取材・執筆。あとヒップホップも。 

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